こんど、職場のアウトリーチイベントがある。
その準備ワークショップで、アウトリーチのゴールは、科学の理解だの増進だの啓蒙だの教育だとかいうのに加えて、明確に「アウトリーチされた子供が将来的に職場の寄付をチャリンチャリンしてくれること」であると強調していた。そういう生臭いサイドをちゃんと自覚するところは米国の健全な部分だとも思う。「とにかく健全」というばかりでも決して無いのだとは思うが、その部分に限ってはちゃんと健全だ。
最初に自己紹介でアウトリーチ経験を簡単に、と言われたので
In Japan…I gave a STEM outreach lecture…about host-microbe interaction…happening at Godzilla cells.
という紹介をした。
そのワークショップでは定番のコレが紹介されてたんだが、初めて通して観た。ジャーゴンとか箇条書きを減らして……というんだが、Talking Nerdyってむしろジャーゴンは増えないかという気はする。
日本語字幕だと「熱く語る」になってるのか。そりゃnerdyのいち側面ではあるのだろうがnerdyのnerdyたるところを捉えているかというと……そしてそのTalk Nerdy to Meというフレーズ自体のもつポテンシャルを引き出しきれているかというと……
思うに、従前(今回も)指導されてきた科学(学術)コミュニケーションというのは、わかりやすく・シンプルに語る、ということなのだが、Talk Nerdy to Meというのはもっと単にわかりやすく・シンプルに語るっていうこととはズレる、いやズレて欲しいと思う。
日本語では
このrelevanceがクセモノだ。
(ところでこの計算式のrelevanceは割り算ではなくふつうに掛け算なのではないだろうか? つまり
で、関連性が高くなればなるほど理解度は高くなる、つまり比例するのではないか? 計算式が長くなりすぎるんだけど……ともあれ)
たしかにrelevanceによってこそ、「一般」と専門家の、彼我の架橋は成るだろう。
しかしそのrelevanceを、どこか教科書的・制度的ともいえる「わかりやすさ」で与えようとしてしまうと、イッキにNerdyな感じが消える気がする。
それぜんぜんNerdじゃないじゃん。
そうじゃなく、俺に言わせればNerdはもっとおのれのNerdを萌えろといいたいだろう。
Nerdってのはもっと、早口で、自分の萌えに忠実で、ときに脱線し、そして、そのNerdであることこそがそのNerdの価値であるときさえあるということが、大事なNerdのパラドックスなのだと思う。
いや、もっと言えば、むしろおのれのNerdを萌えることでしか他人とつながることができない、というのがオタクだ、と、おのれの(いささかぬるいながら)オタクという業をみて思う。
そもそもこの呼称こそが各個のNerdというモナド同士、あるモナドから別のモナドへ超えていこうとする跳躍そのものだ。だって、オタクは「『オタクは……』と呼びかける存在」として見出されたのだ。
「オタク」と「Nerd」という単語の違いはすごい。英語でのnerdは単に「変わり者・社会不適合者・非コミュ」ということでしかない。そこを反転し「二人称でオタクを使うひとびと」と呼び出したことなんてものすごい理解が裏打ちされているという思いがする。
逆に言えばTalk Nerdy to Meということばでようやく英語は「オタク」という理解のふもとにまで来たように見受けられる。でも、講演しているMelissa Marshall本人もその理解に自覚がないし、逆にありがたきTED様をおしいただいている日本人も「熱く語れ」といってしまう。
それはちゃうんちゃう?
わたしがTalk Nerdy to Meというフレーズで思い出すのは、かつておこなわれたこのイベントだった。参加していないのでただの伝聞なのだが……
自分の小さな知識の外に、世界には膨大な知見があることを思い知らされて。
でも、例えば、自分で山頂まで登るのは大変なんだけど、最先端を研究している人たちが探索している峰の遠さや高さ、凄さをちょっとだけでも味わえる、そんな講演をもっと聞きたい…その時そう思いました。
3331熱中教室 8/9,8/10 | Peatix
「峰の遠さや高さ、凄さ」といういいかたも、どこかまたそれ自体落とし穴になるような表現になることを危惧しなくもないのだが、それでもわたしはそこに、Nerdyと同じものを読んでいる。
同じものとはひとことでいえば「萌え」すなわちあくまで主観的な「For me」の中心をブレることなく鉛直に探り当てて表現するということだ。
「鉛直に」、というなら、「どこ」を下ろしていき、そして「なに」を、探り当てるというのか?
Peatixイベントの引用文に戻ろう。もちろん「凄い」からやっているひとや部分もなくはない。しかし、必ずしも「凄い」からやっているとも限らない。
言うまでもないことなのかもしれないが、わたしの信念として、科学には集合体としての人類が新規の知識を創出し、同時に却ってそれまでの知識の正しさを確認する制度的な営みとしての役割が課せられている。
しかし同時に、その創出は「個々の人類」という仮想的な存在にとっては、ほんの少し歓喜でもある、とも信じている。
結局このNerdyというサイエンティストであれエンジニアであれ、いっこの人間として生き、見、聞き、感じ、考えて、喜ぶ、肉を持った存在にほかならない。
それがどういう喜びであるのかにおいてであれば、きっと「つながり」を見つけることは可能なのではないかとさえ願っている。
それがわたしの思ったTalk Nerdy to Meだった。