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9月になるとほぼ日手帳の来年版が出るので、購入しようという検討がわが家では始まる。ただ実際のところ育児のタスクは重く、去年から白紙のページは相当な割合にのぼってしまっている。これはたいへんMOTTAINAIことだ。
ほぼ日手帳に万年筆で書く愉楽
ご存知の通りほぼ日手帳は決して安くない。ちょっとしたステーキが食べられる額である。ただその分、毎日をゆったりと書き留めるうえでは1日1ページというのははずせないし、正直なところ日記帳としての造りでほぼ日手帳はわたしにとって理想的である。造本は1年間の開閉に耐えて充分丈夫と思えるし、なによりも万年筆との相性がすばらしいトモエリバー紙になっている。
万年筆でトモエリバーに書くということはそれだけで悦びがあるのでそこに戻りたいといつも思う。それはまさに、愛撫なんです。わたしが万年筆でトモエリバーに書くことは、万年筆がわたしを愛撫するということなんです。
書くことをそのものを愉しむためだけにほぼ日手帳と万年筆を帯びるというのはまことに贅沢なことと思える。
記録としての日記のためにはしかし常に持ち歩いて書き留めることにしくはなく、そして立ってでも書き留められるスマホというのはまことにありがたいデバイスとしてある。ミニマリストに対するあこがれはいついかなる時でも自分の中にあるが徹しきれない。それどころか検討しているうちに挫折するということばかりがつづいている。
ユビキタスキャプチャ
古典に属するが表三郎『日記の魔力』を読み直していてあらためて日記というかほぼユビキタスキャプチャにちかい取り組みを開始している。
iPhoneの純正メモで、そのときそのときの時刻と、やったことをただひたすら書き連ね、はじめてユビキタスキャプチャらしきことができた。
ユビキタスキャプチャってなんかうまくいったためしがなかったのだ。多分やるとしたら誰もフォローしないままの鍵付きのTwitter裏垢を作って、ひたすら書きまくりつつ、それはIFTTTでEvernoteに延々Appendしまくるみたいなムーブになるんだろうと想像してはいた。
しかし何か直観的にそれが「違う」という思いもあった。TwitterとEvernoteの組み合わせは表三郎式ユビキタスキャプチャにはそぐわない、と。それは今にして考えれば、書きつつ読むということに、Twitter→Evernoteという自動フローが邪魔をして、書くのはいいが読むようにならないのではないかということにあったと思う。
また、もっと即座に起動できてほしいというのもあり、TwitterよりももっとOSに骨がらみになった純正メモアプリの方がわたしの希望を叶えてくれた。そういうわけで意外にこの純正メモでもうまく突っ込めている気がしている。だからしばらく試してみたいと思っている。
ユビキタスキャプチャはひとつの理想としてつねにあった。しかし、これまでついぞうまくいってこなかった。おそらく、ユビキタスキャプチャのための紙や最良のアプリを探す、という強迫観念が、無用のハードルだった、という認識を今回もった。それよりもむしろ、今(=スマホを持っているのなら)すでにそこにあるものを利用する、という基準から、Apple純正メモアプリを使用していく方法に帰着した。
ユビキタスキャプチャは現代知的生産の技術のひとつの理想としてある一方で、正直、誰もがユビキタスキャプチャに大成功しているとは思いづらいところがある。存在は知っていて試みたりもするけれど何かつづけきれないもののあるメソッドのように思ってきた。
今回も、ユビキタスキャプチャについては堀正岳さんの本に書いてあったと思ってKindleで『ライフハック大全』を読み返したりいろいろ眺めていたが、どうもユビキタスキャプチャという方法そのものがGTDからきている。GTDもついぞ身に付かなかったものだ。
アナログとデジタルのThin Red Line
こうして行動記録としての日記にスマホというデジタルテキストを再導入しようと考えて、紙に手書きをするということがデメリットとしてあるか? という問題はこれまでに長くあった。ただ、これについては近年まことにシーンが様変わりしているといって差し支えない。
事実、いま電子テクストとFixedテクスト(非電子テキスト画像化ドキュメントと、紙のドキュメントを包含する)と手書き文字と口頭発話というのは、かなり低コストで、ときどき相互の、乗り入れが進んでいる、といっていい。
Fixedテクストや手書き文字、口頭発話というのを、ほぼ瞬時に電子テクストに集約するのは、決しておおげさじゃない。したがって、それを前提にして知的生産の技術を考えなおす余地はあらためて大きくなっている。
動画共有サービスには動画音声を一括で書き起こしに変換する機能があるものもある
というのも8月26日に、あるシンポジウムに光栄にも特別講演者として招かれる機会があった。そのシンポジウムのメインとなる内容から、ほぼ2011年の博論審査以来ぶりの問題設定に立ち戻ることになった。要は、10年以上ほとんど外では話さなかった話題だったのである。というのは、論文でも書いてはきたのだが、サプリメントデータとして追いやられていることが多かった。「アネクドート」的だったといってもいい。だからこそ、この話す機会はかえって新鮮に感じ、シンポジウムが終了してから急速に、復習したいと思った。
シンポはZoomと現地のハイブリッドで行われた。記録のために録画されるということは事前に聞いていた。わたしのデータはだからわたしはシンポ主催の先生に招待していただいたお礼を述べるとともに、復習のためにわたしの講演の部分を切り出してもらえないかとお願いをして幸いにすぐに快諾いただいた。そして確認していると、今度はなんらかのテクストとしてまとめておきたい、という思いが高まった。
たとえばMicrosoft Streamのような動画共有サービスをオンデマンド講義動画の配信のために用いている大学は少なくないと思われる。昨年行った生命科学の講義でもStreamを利用していた。そのとき、そのサービスでは、動画ファイルをアップロードすると、「自動書き起こし」ファイルが生成されることをわたしは見逃してはいなかった。
その書き起こしは、すこし手を加えると、長大なテキストになった。もちろん、「えー」「あー」「まあ」「で、」というのが大量に入っているので、それらは一括で変換して消去してやると、それなりにスムーズに読める文章として浮上してくる。
このようにしてわたしはもらった動画ファイルをテキストに変換したうえで、数日間、読むに堪える文書となるよう手を入れていった。講演動画を自動書き起こしで1週間かからずそれなりによみうる文書化できたことで、音声とテクストのハードルが非常に下がったことをすごく感じた。
機械翻訳
機械翻訳も急速に普及してきているのを感じる。DeepLやみらい翻訳といったところが有名か。外国語で記された論文を読むために機械翻訳で下訳して理解の助けにしたり、あるいはそれで理解したことにするというひとも少なくないのであろう。
上で言及した講演書き起こしはGoogle docsで編集していたのだが、docsにはドキュメントの翻訳文を作成するメニューが存在するのに気がついた。Google翻訳が働いてくれるのだろう。
結構いい。少なくとも、口頭で無茶苦茶なことを言い散らかしてるのよりは遥かに通りそう。 pic.twitter.com/bIn9Iiprxt
— 浜地 貴志 (@hamajit) 2022年9月4日
これは、1万字で音を上げて放り出してしまうみたいだが、かなりおおきい。もちろんだが、この方法は、出てきたので英語があっているかどうかわからなければいけないから、英語が身についていなければ話にならない。
なんにせよ、機械翻訳と上手に付き合っていくことで言語がシームレスになっていく可能性を予期しないではいられない。
Fixedテクストを電子テクストに即時変換するGoogle lens
また、Google lensは電子テクストじゃないFixedテクスト、印刷であれディスプレイ上であれ手書きであれ、視覚のうえに浮かび上がる文字イメージを、ものすごい精度と速度で電子テクストにできる。
Google lensに言及していたのは @medtoolz 先生だった。わたしはそのときすぐにiPhoneのGoogleアプリでGoogle lensが利用できることを調べて、立ち上げて使ってみた。
これはかなり良く、たとえば紙の本を読んでいるときにメモしたいというときに、Google lensをひらいてカメラ撮影すると、画像中にうつった文字がほぼすべて認識され、段落構造を比較的反映した電子テキストとしてコピーが可能となる。段落構造を反映する(多くの場合)というのは地味に重要な点だ。Fixedテキストとして次の行にうつるからといって、電子テキストにしたときに改行が入ってしまうと、その後の利用に不都合が生じることもある。わざわざ改行を消しておいたほうがあとあと利用価値が高い。
もちろんこれまでであればただ写真を撮って、Evernoteなりに保存すると、いちおう検索可能にはなっていた。しかし、すでに電子テキストになっていれば余計な画像に気をとられることもない。
あるいは実験で使う分光光度計の数値データを、これまでは測量野帳にメモしたり、あるいはUSBフラッシュメモリに書き出したりしていた。しかしわたしは最近では、画面上に表示された数値をただGoogle lensで撮影してApple純正メモアプリに貼り付けるだけである。そしてMacのところでメモアプリから、Benchling実験ノートに貼り付けるだけである。これは非常にスムーズだ。
電子テクストを音声に変換する読み上げ
逆に電子テクストやリフロー電子書籍からであればAlexaやSiriで読み上げが可能になっているからそれぞれのバウンダリーはもはやシームレスになりつつあるということだ。
わたしは時折Kindle電子書籍をAlexaアプリから読み上げしてもらい、本の概要を掴むために使っている。
なお、電子(リフロー?)テクストをfixedにするには印刷したり画像変換したりすればいいのでいうまでもないだろう。
このようにして、電子(リフロー?)テクストと印刷・ディスプレイ・手書きを包含するFixedテクスト、そして音声とのあいだの関係性は双方向的かつシームレス……とまではいえないまでも、ハードルが急激に低下しているというのは間違いのないことであろうと思われる。
年末に向けて電子蔵書の増強と紙蔵書の処分を進めていくことにしてメルカリを基軸に出していこうと思っているが、それ以上にfulfillment by Amazonの利用も検討して販売発送処理を自動化したい。できれば実家の蔵書もそのようにして処分していきたいから、改めて検討していこうと思っている。
デジタル情報のストック&フロー
Evernoteがファイル・アイデア情報のストックとしての地位にこれまであった。メジャーアップデートで何回か壊滅的な改悪があったという歴史が難しいところなのだが、それでもEvernoteの地位はわたしの場合今後も当面揺るぎそうにない。
ファイルのフローはといって以前であればDropboxであった。しかし、一時的に利用するファイルをデスクトップ(あるいはダウンロードフォルダ)上で使ったまま大量に居残りが発生してしまっている。フローが、Dropboxまで行かない。これはこの数年間ファイルをDropbox同期しなくなったからであり、Dropboxでファイルがフローしなくなっている。
アイデアのフローはなるべくApple純正メモアプリを使用している。やはりiPhoneとMacを行き来させる上で1番楽だ。
もう少しまとまった書類レベルのフローはGoogle docsが他の共著者との取り回しも良い。現在も、論文のために共著者とハンドリングしている。それに利便性では一等さがるものの、Wordファイルをメール共有ということになるだろうが、利便性が下がる反面、実際堅実ではある。スプレッドシート系も同様の流れだろう。
Evernoteを使い始めて10年を超えるが、研究活動でEvernoteに蓄積した情報が揺るぎない基盤になっているという思いがある。この10年の途中何度かおろそかになったこともある。Evernoteのなかに、まるで地層のような、アクティブな時期と、不活発な時期がある。それはアプデでの改悪で絶望して触らなかったからでもあるし、将来を思い悩んでのこともある。ただ、それでも長いEvernoteの整理と蓄積が極めて強みになっているのは思い返すと間違いないと思う。だから時間ができたら当面また強化したい。
実験ノート
日々の実験ノートについてはBenchling一択という思いがある。
前はMicrosoftのOneNoteであった時期もある。研究所で支給されていたのである。
少なくともEvernoteにひとしきりの記録としてPDFに固めたものは入れるけど、日々の実験ノートのハンドリングはどういうわけかEvernoteでやりたくはない。Apple純正メモも同じでどうも落ち着きが良くない。
実験ノートも原理的にはGoogle docsでもいけるのではないかと思わないこともない。ただやはり、Benchlingのように日付やインデクスを簡単に出してくれるところと、そもそもの機能が制限特化していることで変に目移りしないところがよいのかもしれない。結果としてBenchlingがアタマひとつ抜けていることになる。
実験ノート以前に、BenchlingはプラスミドやDNAのハンドリングでもう離れることは当面できないだろうと思う。しかもカレンダー表示画面で自分の活動経過がサマライズして表示されるからモチベーションにもなるので実験ノートもそこに集約することに自分の不満はなくしばらく世話になるだろうという確信は強い。
スマホか、Macか、ポメラか
例えばポメラという誠に素晴らしいキングジムのデバイスがある。
これは、情報戦におけるゼロファイターだと思う。昔の折りたたみキーボードの機種を持っていた。だからその素晴らしさはわかっている。しかし、もうおそらく自分はそれを買わないだろう。MacBook Proでやるか、iPhone・iPadにMagic Keyboardをつないで書くようにしている。
一時期はiPadとスマートキーボードがポメラの位置付けかと考えていたのだが、使っていた前世代のスマートキーボードが使えなくなって、もともと物理的劣化に大変弱い構造であることが判明してからは、完全に諦めてiPadで書くときもMagic Keyboardのお世話になっている。
おのれのなかで研究と情報の関係性や、自分の視点からのテキストハンドリングで論点になるあたりを、思いつくままにまとめてみた。
元スレッド(Twitter)
ちなみに、元スレッドはこれである。
古典に属するがこの本を読み直していてあらためて日記というかほぼユビキタスキャプチャにちかい取り組みを開始しておりiPhoneの純正メモでそのときそのときの時刻とやったことをただひたすら書き連ねてはじめてユビキタスキャプチャができた→表三郎 日記の魔力 https://t.co/cRtml5gyPs
— 浜地 貴志 (@hamajit) 2022年9月9日
このクソ気色悪い句読点を使わない書き方は例のおっさんの句読点が嫌われる記事を目にした影響は実際強いわけだがおっさんに見られることがショックというよりも「じゃあ句読点を使わないで書くという経験がどういう印象を生むのだろうか」という好奇心から手を染めている。こうして出来上がる文章が意外と自分のアイデアの呼び水にもなっているのは感じるしなにか話し言葉の書き起こし文章にもみえて先日の講演書き起こしでこうやってアイデアであったり素案になるものがベロッと外に露出してしまうことはひとつの強みでもあると感じたために意外な有効性を認識しつつある。