殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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猫の埋葬

小学校に上がる以前、実家では猫を飼っていた。
名前は「ミー」ちゃんだのなんだのという名前だったような気がする。正直なところ、忘れてしまった。今でこそ動物全般に無感覚な私であるが、当時はとてもかわいがっていたものである。近所に同い年の子供もいなかった私には、図鑑と猫だけが遊び相手だった。
いまでも覚えているのは、ときどきその猫が、籐で編んだ昼寝枕の中に入り込んでいたことだ。いや、そんな写真が、私の幼少期を集めたアルバムにあったために覚えているのかもしれない。いま考えると、籐の枕の大きさなどたかが知れている。ずいぶん子猫の頃だったんだろうと思う。それからいくらかは大きくなったはずだ。
そして突然の別れが来た。
ある晩、私が気まぐれに
「ラーメンがたべたい」
と言って、母にラーメンに連れていけとせがんだことがあった。
それで母は支度して、祖父母らも支度して、母の車に乗り込んだ。
車庫から出ようと母が車をバックさせると、

ミギャ

という小さい音がして、がたん、という小さい衝撃があった。
それ以来、私はペットを飼っていない。

空中キャンプ氏の短編集『下北沢の獣たち』

5月10日に蒲田で開催された文学フリマで、空中キャンプさんが同人誌を頒布するということで、いそいそと出かけていきました。
空中キャンプさんはずっと映画を見ている人で、映画のレビューをブログでたくさん書いています。私が空中キャンプさんをとてもすごいとおもうのは、常に褒める。けなさない。いや、批判というか苦言も呈するには呈するのですが(実写版「ドラゴンボールエボリューション」の感想など)、それでもとても爽快な読後感です。私など、すぐチンマンウンゲロ言ってしまうので、読んで頂いている方には誠に申し訳ない。
それから、ときどき私小説のようなエッセイのようなエントリや、完全なフィクションもはさまっています。柴田元幸さんのファンとのことで、確かに文体には米語のリズムが織り込まれている、気がします。
今回入手した『下北沢の獣たち』は、短編フィクション3編を集めたものでした。傑作揃い。もういくつも感想がウェブにあって、私も書こうと思いながらついつい「あの」書類にかかりっきりになってしまい、いままで本格的に書くことが出来ませんでした。
以下に、感想をまとめてみたいと思います。

感想「アイコ六歳」:不思議の国の「アイコ六歳」

アイコ六歳は(元の掌編エントリから短編へと上げるのに)、アリスを下敷きに書いているみたいだ。屈強な二人組のガードマン、海彦と山彦はTweedledumとTweedledeeをなぞっているのだろう。そのアリスが、ベタに王女になってしまう不思議の国を旅することになる。普通の日常に入っていくのがこの「お金を使ったことがない」王女さまにとっては、不思議体験になってしまう、その逆転が面白い。
もう少し考えていて、そうだアイコがこっくりさんをしてしまうのが凄く危険だと思ったのだった。アイコというのは祈る人、つまり「魔法使い」の末裔だといえる。これは本文にも明言(宣言)してあることだ。魔法使いがこっくりさんの板の上で、十円玉に指を載せ、まじないの真似事をしてしまうとき真似事ではなくなる。そして、魔界の扉が開く。でも、正直に告白すると

トビラガ ヒラクトキ

の謎かけは、わからなかった。扉? その後の夜の扉(冥府だ)なのか、それとも、アイコのご先祖様が引きこもる、続編への仕掛けなのだろうか?
ともかく、こっくりさんは危機に瀕したキツネを指し示す。一行はキツネを探すことになる。フォックスハンティングはwikipedia日本語版にはアマチュア無線の意味しかないが*1キツネ狩りはイギリスの伝統的なスポーツである(はてなキーワード参照)。夜行性の狐が巣穴に戻れないように、狐狩りの早朝には巣穴を塞ぐ。そして逃げ回るキツネを犬たちが追いかけ、追い詰め、仕留める。ここでも、アイコたちの旅程は通常の狐狩りとは逆転している。アイコは屈強なしもべ達を引き連れて、夕闇の森の中を駆けていく。そこで出会うのは傷ついた子ギツネを庇う親ギツネだった。先々々代の王が忌むべき存在として畏れたキツネの鳴き声は、キン、という金属に近い音で木々の中に響き、今上の王の快復を望む王女の到来を待ち受ける。
アリスとハリー・ポッターとキツネ狩りの伝統を横に並べて、私は「アイコ六歳」を空中キャンプ版・イギリスファンタジー文学作品だと読んだのでした。

感想「ひとすじのひかり」:という名の電車

私は実はこの物語が女性のつくウソを描いたものだというブログの記事は後になってから読んだ。
だからだんだん食い違っていく二人の証言を読みながら、幾度も前に戻って読み直した。ウソか? ウソなのか? この物語を笑うには、私の周りにはウソつきが多すぎた。
と、本来の空中キャンプの文フリ紹介記事にはこれが女がさらっと嘘をついてしまうのを書いてみたとあって、ああやっぱりそうだったのかと思う。女の嘘というのはおそらくその通り、嘘なのだと思う。これは私が男だからだろうか?
さて私たちはこのようにさらっと嘘をついてしまう女として、文学史上もっとも印象的な人物を知っている。ブランチ・デュボワ、『欲望という名の電車』のヒロインだ。お高く留まった態度とは裏腹の性。決して迎えに来ない、いつか来るはずの石油王。
でも『電車』でそれぞれの意見が正面衝突するのに対して、「ひかり」*2では平行しながら走っていく。二人の会話はこだまする。しかし、のぞみを抱いた瞬間に、後続車はそのスピードで追突することになる、のかもしれない。
人間関係は、もつれるのが常だから。

感想「下北沢の獣たち」(表題作)

この感想の並びは、本の通りではない。
私が一番好きなのがこの表題作だ。
私は、全くの偏見だが、日本語で書かれた小説の中で「吾輩は猫である」が最高で、それ以降の全ての作家、全ての作品は「猫」に及ばない、と思っている。
それが去年、この時期、「ひげよ、さらば (理論社の大長編シリーズ)」に出会って、「これこそ戦後最高の小説だ!!」と思うに至った。この本を本屋オフで教えてくれた西岡氏及び、それ以前にブログで紹介したコトリコ氏に凄く感謝しながら、私は南仏のコテージで地中海を眺めたりしながらずっと「ひげよ、さらば」を読んでいた。
そして、正しく、「下北沢の獣たち」はその傑作の隣に置くのに十分な資格を備えている。
下北沢地区が再開発の波にさらされているのは良く知られている。この一編はその再開発が遠雷のように響く中での、猫たちと「下北沢のアイヒマン」荒井の対立、そしてそれを媒介する犬と子供たちが平行四辺形のように配置され、美しくスリリングに仕上がっている。目的達成のために、よく練られたインテリジェンスが動いていく。最終目的は対角線の向こう側にあって、直接行こうとするのは最も愚かしい。ゆっくり急げ。
冒頭2ページを割いて語られる「猫除け」避けの饒舌も、スコープを一気に猫にビルトインされたメカニズムに照準することで、その後のストーリー展開をスムーズにし、現実味を与えている。

荒井は世田谷区に、町内会として二十台の捕獲器を購入する予算を申請していた。この知らせは、下北沢に住む猫たちを比喩的にではなく震撼させた。
「下北沢の獣たち」

猫を虐殺する「下北沢のアイヒマン」と言及されて私が思いだしたのはドイツ人ではなく、カラスを駆除する日本人だった。昔、カラスの鳴く朝のことをブログに書いたので、覚えている。カラスは駆除されていたのだ。人知れず。助けることも許されずに。とはいえ、荒井は「貧乏」だということなので、東京のヒットラーとは重ならない。ああ、ヒットラーアイヒマンだから重ならないのは当然か。
動物が動く。会話する。衝突する。これだけでこんなにハードボイルドなのはなぜだろうか。言われたとおりのことをやる。果たせなくても、動いた結果はあるがままに受け止める。雑念はなく、都会というエコスフィアに合った筋肉を持つ猫の姿が、ニューヨークの探偵のようでもある。

*1:私がフォックスハンティングを想起したのはアマチュア無線をやっていたからだが

*2:まるで新幹線の名前のようだ