教養と呼ばれるものはふたつあるという話をしたい。
ひとつは環境がいわば薫りとして焚き付けられたものである。伝統芸能であれ、あるいは美食の習慣であれ、これはその道に「通」じたパイプがないと困難である。端的には家庭環境のなかで、受け継がれているものというような習慣を反映するような知識の集合だ。そうした文化的な習慣のみならず、よく言われることとして、医学部出身の研究者がバックグラウンドとして持つ知識の量は、それだけで侮れないともいえる。「ヒトヲスクウ」等ということは私は意志も実践もトンとご無沙汰だけれど、その手の届かざる知識のことを考えるだけで、物狂おしくさえある。「実務家」とはおおむねそういう足腰を持っているようである。これも薫習の結果としてあるものといえよう。
もうひとつは「好奇心」とよばれているものの結果としてワンサとぶらさがった「ひっつき虫」のようなものである。そのひとの「好奇心」を反映するような知識の集合である。
前者は求むべくもないし、後者は前者に太刀打ち出来ないが、それでもたしかに後者は今からでもやしなうことができる。
さて、重要なのはこの次の帰結である。どちらも「同じ」ような機能を果たすのである。