殺シ屋鬼司令II

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禁書にすべき本とその読み方

3ヶ月ほど前にこうした発言を目にした。


高校生の読書への動機付けというのはどうでもいいのだけれど、或る種の本は確かに「注意深く」読む必要があり、そうしたものはやはり「禁書」と呼ばれるにふさわしいとおもう。
そういう意味で、内田氏の発言の意図とは離れた所で、私もまた「禁書」という語の力を恃んで以下のことを書き進めようと考えている。
私が案じているのはどうも「禁書」に変なロマンティシズム、淫猥なような、反抗のポーズのような……を感じてしまって噴き上がってしまって、のぼせてしまっているようなことがあるようだけど、あまりそういうふうには考えたくないなとおもっている。
注意深く、というのは「疑いながら読む」というのとも違う。疑うどころか間違っているのが明らかなのに、結果としておそらく正しいだろうと思われる知識に到達することは読み手の側で可能となるような読み方である。
例えば著者が書いていることは唾を吐きかけたくなるぐらい間違っているにもかかわらず、その間違い方を精査することで逆に判明することがあるということである。
例えば今西錦司の『生物の世界』というものがある。この今西錦司という人間の書いていることは、自然科学に通じた思考を持つ人間であれば理解することが不可能である。なぜか人文系の知識人どもがこれを高く持ち上げるので、この本は中公クラシックスといういわゆる古典ヅラをしているが内容はただの妄想かよくてウワ言である。しかしそこにはひとが威勢よくズドンと間違ってしまう典型例のようなものがある。そしてそこで無意味なムーヴメントが発生し、今に至るまで益はなく害悪ばかりを垂れ流した現象としてよく把握しておく必要がある。
また「〈複雑系〉系」の本も、禁書としてふさわしい。あれらは70-80年代には〈生命論〉、90年代には〈カオス〉から〈複雑系〉、2000年を過ぎたあたりからまた〈ネットワーク科学〉や〈非線形科学〉というように「カンバン」を架け替えてはわかったようなわからないような商売を続けている手合いだ。一気通貫読んでみるがいい、若干のトピックの入れ替わりはあれ、口調は面白いように似通っていることが察せられるだろう。まるで問題の解決ではなく商売の存続だけが目的になっているかのようなきらいさえある。だからこれらを読んでそのからくりを喝破し、問題が解決ではなく解消するような視界を獲得することができれば、禁書というダンジョンをクリアしたことになるだろう。
「読み方」ということでいえば、『人生がときめく片づけの魔法』のほんとうにスゴい内容について - 殺シ屋鬼司令は、非常に近い精神で読んだものである。まちがっているというわけではない。ウラがあり、そこを会得することが重要だというスタンスだ。
また、先日「イシューからはじめよ」を再読したときも、「片づけの魔法」を読解したのと同じ構えでのぞんだ。ウラを見抜こうとした。
つまり、

「或る本がある」
「その本を書いた人は実地には指導に成功している」
「しかし、本だけを読むと、あまり目立ったことが書かれているわけではなく、これだけが決め手とは思えない」

ここまできて、その裏側にあるものの存在を嗅ぎとる。
どうも、これだけじゃうまくいかないんじゃないか。
もしかして?
メチャメチャさらっとしか紹介されないので、多分みんな見落としてるが、あの本の根幹は「先生に聞きなさい」「上司に聞きなさい」「現場のひとに聞きなさい」「クライアントに聞きなさい」という、身も蓋もないが実は一番重要で、しかもアカデミシャンとかコンサルタント (consult-ant!) が頭デッカチのために(これはアカデミシャンとしては否定しようがない)、かえって敬遠しがちな戦術にあるんではないかというのが最近の読みになってきている。
「他人に聞く」。
イシューからはじめよ、というと、印象に残るのはいつも、MECE(「ロジカル・シンキング」)や「これって、イシューじゃないんじゃないですかね」(著者がコンサルタントの仕事中に発して、当時の上司から褒められた言葉)なのだが、「••に聞け」ということでいいんじゃないか。
その意見でいうと、『イシューからはじめよ』のアマゾンのカスタマーレビューは、完ッ全に「••に聞け」というところを読み落としてるでしょう。
私に言わせると、それは、読めてないってことになるんだ。
私に言わせると、「••に聞け」が、この本の賢者の石だ。鍵鑰概念だ。
(「片づけの魔法」の鍵鑰概念が「ときめきという価値を自覚して生きろ」というものであるように)
裏側にあるものを、著者が意識的に隠しているというわけでは必ずしも無い。
フォトリーディング」は隠していただろうが(あれは有料のセミナーとセットだ)、片づけの魔法はそこまでは意識的ではなかったのではないか(これもセミナーがあるが、「裏」も本人が自覚しているわけでは無さそうというか、本人があまりに或る種のカルヴァニズムすぎて感化されるというのがセミナーの実情なんだろうと思われる)。
「イシューからはじめよ」は、わからない。コンサルというのはある意味で手練だから、意識はしていたと思う。
わかるひとにわかればいい、公開はしておく、という雰囲気だったかもしれない。
そこで

イシューからはじめよ:
オモテの読み方→ロジカルシンキング本のバリエーション
ウラの読み方→「人に聞け」

ということになる。
また

片づけの魔法:
オモテの読み方→片づけ祭り!
ウラの読み方→価値観の自覚と涵養

である。
もっと前の例でいえば、「フォトリーディング」のからくりを看破した時のフォトリーディング雑感 - 殺シ屋鬼司令と同じ。

フォトリーディング
オモテの読み方→寄り目にしてぼーっと眺めながらページをめくる
ウラの読み方→「再読から最初にする」方法論

ということがあぶり出される。