殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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万年筆で書くことの快楽

文章を書くといえば「キーボードで打つ」。

それがこれまで20年間続いていた。修正も、保存もでき、色々とよかったからである。実際、20年昔の高校時代の文章さえハードディスクドライブには残っていた。その結果、全てとは言わないまでも、これまでの人生で自分の書いたテキストの大部分が、デジタルで格納されている。

私はこれまで手書きに一切重きを置いてこなかった。どちらかというとわずらわしいと思っていた。この10年の間に、ゲルインクボールペンとしての書きやすさでは完全にスタンダードとなった「ジェットストリーム」でさえも、「必要に迫られて使うもの」であって、ボールペンの中ではヨリましという程度にしか思わない。長文を手書きで書くことでアイデアや知的生産の面で何かが起きるかも、という期待がこれまで一度もなかったとは言わない。しかし、何かが来た顕著な例は記憶している限りない。そして、書く事はキーボードに戻っていくのであった。

2010年代後半になり、そこに1つの揺さぶりが生じた。スマッホの音声入力モードである。

これまで自分が参考にしていた本の著者が幾人も、自作を音声入力を使って執筆、作成したことを同時多発的に公表し始めた。勝間和代野口悠紀雄、その他大勢だ。いずれも自分が読んで参考にしてきた著者ばかりだ。当然、この人たちは、元来テックとかライフハックの話題に明るい。だからこそ自分が好んで読んでいたという面もある。それでも、音声入力技術が実用レベルになったという状況は、私に強い印象を与えた。私もやってみよう、と思った。

そしてくじけた。

私はどうも、考えるというと、選択肢が少ない。特に自分1人で行うとき、机に向かってキーボードに手を置いてコンピュータの画面を見上げるか、ノートを広げてペンを持つか、ということしかうまくいかない。そういった姿勢がいわば「ホームポジション」のように要求されて、慣れきってしまっていた。

だから、急に「音声入力で文章ができるようになったから、ソファーや散歩でそれを実践してみよう」としても全くうまくいかなかった。

私は音声入力をしようとすると、あらぬ方向を見つめてうわごとを吐く、頭がおかしい人になる。それ自体は自分では気にしないのだが、なかなか慣れず、そういうことができる場も意外と見つけられない。同僚のひしめくオフィスでやるわけにはいかない。気にしなければ路上でもかろうじて行けるが、やはり個室が必要だ。カフェはいけない。自宅も家族の相手をするのが難しい。そうなってくると、残念なことに音声入力が出る幕はどんどん縮小した。

専門で要求される文章では、ジャーゴン・専門用語に弱いことも響いた。

そして1年半が過ぎた。

相変わらず私はものを書くときはキーボードに向かっていた。それでも何とか書いているが、それもやむにやまれず戻ったのであって、いつでも音声入力で効率化することを夢見てきた。

書く行為はやむにやまれぬもので、書かれた内容だけが重要なのだ……書く内容が良ければ、別に最初からキーボード入力しようが、手書きしたものをキーボードで打ち込もうが、音声入力しようが、構いはしない……読者もそれを誰も構わない……どうでもいいことだ……と思っていた。

妻が、万年筆を使い始めたのは今年の夏だった。

自分も万年筆の経験が全くないわけではない。

かつて「人に手紙を書くときは、万年筆ではなくては失礼にあたる」あるいは「履歴書を書くときは万年筆でなくてはいけない」と読んだことがあって、「万年筆様の何か」としか言いようのない安いものを手に入れて使ってみたことがある。その経験は他のペンと大して変わらなかった。

インクの交換や何やかやで面倒なところのある万年筆は、その面倒さがクローズアップされるいっぽう、利点をあまり見出せていなかった。万年筆をすすめる本でも、まず書いてみて、と言っていたが、私のこれまでの安いものでは、あまり心を動かされなかった以上、そのまま深追いすることもなかった。

妻の最初の1本は、パイロットのカクノだった。極細字EF、コンバート洗浄用スポイト付限定版で1500円。

(これはコンバーターと洗浄用スポイトがないもの。それらのついた限定版は、文具店在庫があるかもしれない)

同時に彼女は、「本格的な」万年筆を買いたいといった。10,000円台の国産万年筆こそ、本格的な万年筆の初体験に選ぶべきだと、老舗伊東屋の万年筆チームは『万年筆バイブル (講談社選書メチエ)』でいう。中でも、パイロットのカスタム74は本格万年筆の入門として最適らしい、ということを、妻は文具仲間から聞きつけた。

ひとつきほどした8月のなかば、たまたま、カスタム74を非常に安価に入手できた。彼女の入手した万年筆カスタム74(ペン先F)で私も試し書きをしていた。それは実に衝撃と言えた。

書くことがこれすなわち、快楽であった。

妻がこの機会に、と、私の分も、2ヶ月後の誕生日でのプレゼント扱いとして、1本買ってくれた。妻に感謝した。

私は夢中になって書き始めた。これはいつかあらためて説明したいと思っているのだが、瞑想的な筆記ワークの「モーニングページ」を、昨年末から続けている。モーニングページは、毎朝起きぬけに「意識の流れるまま」を手書きで記し、ノートを3ページ埋めるものだ。The Artist’s Way(邦題『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』)という、創造性涵養・再発見のためのワークブックのなかで紹介されているが、それに言及した『男子劣化社会』という本で私は最初に知った。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ノートのサイズは、原著者はレターサイズを使っているらしいが、私はA5版のツバメノートを使用している。アマゾンで安かったからである。

ツバメノート ノート A5 横罫 7mm×24行 100枚 H100S H2006

ツバメノート ノート A5 横罫 7mm×24行 100枚 H100S H2006


私は、モーニングページのために早速カスタム74を採用・投入した。使っているツバメノートが、万年筆とりわけカスタム74に非常に適している。カスタム74は私の初めての金ペン先で、これまでに使った廉価ペン先とは完全に違う感触があった。

すごかった。

『4本のヘミングウェイ』という本がある。

萬年筆くらぶ」という、筋金入りの万年筆愛好者集団が、昭和期の万年筆業界のキーピープルの証言を、1990年代の平成初期に集めた本だ。万年筆はその頃には、ビジネス用途としては完全にボールペンに置き替わられ、すでに愛好家向けのものとなっていたといっていいと思う。

この本の「はじめに」が、奮っている。

万年筆を使っていると、「ああ、万年筆いいですね。」と、
よく声をかけられる。
あなたもお使いですか? と言葉を返すと、
「いやいや私はそんな高価なものは必要ないんです。
ほら、これで十分!」と、
たいてい百円のボールペンか水性ペンを見せられる。
あげくに「本当に書きやすいんだから!
ちょっと書いてみなさい!」とわざわざペンを貸してくれる。
しょうがないので二、三文字書いて、
結構ですなあと、満足気にのぞき込んでいる持ち主にお返しする。
それでもたまに脈のありそうな人には、逆に私の万年筆を、
ちょっと書いてみますか?
と筆記角度を指定してお貸しする。
そういう人は「ほうほう、どれどれ」と書いてみた瞬間、
「え!」と絶句する。
天にも昇る書きごこち、とか、
ヌルヌル、ヌラヌラ、スルスル、カリカリという形容詞は
万年筆のためにあるのであって
他の筆記具ではそうはいかない。
万年筆が書きにくいという人は
その人の筆記角度にペン先が合ってないか、
筆圧や運筆のしかた、そしてそのスピードに合った
万年筆を選んでいないからである。
4本のヘミングウェイ―実録・万年筆物語

私はこれを二十年近く前に読んだとき、ちょっと引いた。でも、そんなに良いものなら、と思い、自分で「万年筆に似せた何か」を使ってみて、全くそういう感触がなくてがっかりした、と思う。

いまなら、このことばを完全に理解できる。

たぶん、そのためには、カスタム74という本格万年筆と、ツバメノートという万年筆筆記に適した紙の、両方が揃う必要があったのだ。紙を選ぶ、本格ペン先を選ぶことの凄みを知った。

そうすると、ほかの選択肢はどうなのだろうか?

いま、ツバメノートとカスタムという組み合わせに対して、手許で試せるバリエーションの選択肢は、ペン先では妻のカクノEF。

そして、紙ではモーニングページに以前使ったライフ・ノーブルノート、測量野帳モレスキン、そしてほぼ日手帳だった。

ほぼ日手帳は、実は今年分を昨年購入したものの、今年はモーニングページで「日誌欲」が解消されてしまうため、年始早々から使わなくなってしまっていた。ほぼ日手帳はご存知の通り、高額な商品で、ずっともったいないと思っていた。来年はもう購入を中止し、ツバメノートでモーニングページで一本槍にしよう、と思っていた。

カクノでツバメノートに書いてみたところ、なかなか良いのだが、EFで細すぎるのか、こすれる感じがあって、やっぱり、カスタムほどの鮮烈さがない。ただ、「カスタムの面影」をカクノの筆触りに探してみると、たしかに通じるものはある。廉価品カクノを通じて、本格品カスタムの「良さみ」を思い浮かべる、という感じだ。

一方、カスタムに対してノート(用紙)の方を変えてみた。これはもう断然、ほぼ日手帳の筆触りが良かった。なぜこれまでほぼ日を使わなかったのか、いまにして後悔するレベルであった。もちろん、それは、8月になってカスタムを入手して初めてそれがわかったのだから、仕方のないことだったのである。

モレスキンは良かった。抜群と言うわけではないが、ツバメノートの次くらいに書くのが楽しかった。測量野帳は値段なりだ。ノーブルノートは値段の割に、気持ちよさが分かりづらい。書いているとにじんだり裏抜けたりもしないので、いいノートではあるのだと思う。でもツバメノートほどの、心地よさが出てこない。

ノートの順位は、だからほぼ日>ツバメ>モレスキン>ノーブル>測量野帳……というあたりだと感じた。特に、ほぼ日は、書かずにいてはもったいない。書くこと自体が、気持ちいい。万年筆を使わないでボールペンを使うのではもったいない。せっかく高い紙なのだから。

こうして、万年筆を書くことそのものが愉しい、ということが知れてみれば、文豪たちが執筆に万年筆を愛用した理由もおのずから知れよう。

彼らは、第一に、キーボードという選択肢がそもそもなかった。しかしそうではなく、執筆そのものが万年筆を使えばストレスなく進められる。筆圧が必要ない。さらに、万年筆とその良きパートナーとなる紙(原稿用紙)で書くということが、直接自らにとって快い刺激となるのだ。

書くことの快楽。思想が文字になることが快いのではなく、文字になる以前、ペン先が紙に接触する感覚の淫靡にこそ、快楽・愉楽・悦楽が、源泉する。そのことが、ようやく自分の感覚としてはっきりわかった。

書くことは、やむを得ずすることでは無いのだ。ややおのれの狂気と思われることを恐れずにいうならば、筆記そのものが愉悦なのだから、その筆記行為の中で行使される「内容」とか「思想」と言うのはむしろ、「筆記」という行為のなかで「使っていただく」ものとさえいえよう。ペン先が紙の上を走ることが主としてあり、思想がむしろ従となる弁証法の地平だ。

キーボードで書くのは小回りが利く。音声入力は、手軽だ。それに加えて私は、快楽としての万年筆執筆に、出会ってしまった。さて、これらの使い分けは一体どうなっていくべきなのだろうか?

少し考えれば、既に答えは自明だ。

万年筆でツバメノートに執筆して快楽し、それを読み上げて音声入力に供する。

後は画面上でキーボードで修正を加えることが、読みうる文章、公開しうる文章としてデジタル化されることになる。

ノートを使えば手を前に「構える」ことになるから、考えることにまつわる「ホームポジション問題」も、これで解決する。音声入力に伴う入力ミスや、構成のための順序転換といった事はそもそも、キーボードで行う必要がある、ということは、音声入力の先達が口を揃えて述べていることだ。

特に、野口悠紀雄は、音声入力によって文字を入力するストレスが圧倒的に低減したことで、書く内容の有無が決定的になってきたことを指摘している。

つまり技術の進展は、古い技術を駆逐したわけでは必ずしもない。また正気の境界の細い赤い線を踏み越えるのを恐れずいうなら、音声入力と言う異次元の手法により、却って万年筆筆記の技法・習慣が純粋な「悦楽の源泉」としてクローズアップされつつ、技術的には互いに補完されて、ギャップがフラットになった、という事さえできるはずだ。

そういう意味でいえば、ボールペンや鉛筆と言う筆記具の出番は私の生活圏からは、ごく限られた業務上の要求を除いて使わない日々が増えた。

ノートの1日の中での機能分担ができた。朝のモーニングページは、まとまった紙面を要するので、ツバメノート。日中・出先ではモレスキンを使っている。バレットジャーナル風にメモをしている。そして、帰宅後、晩にほぼ日手帳を出す。半年以上放置していたほぼ日手帳が、ここにきて、純粋な喜びの源泉となった。

もし書き起こしてウェブに流したいことがあれば音声入力をすれば良い。音声入力がエラーを起こしたらキーボードで直せばいい。

最後に言っておかなくてはならないのは、私はアナログ最高ともデジタル万歳とも言うつもりはないということだ。それはつまり技術の進展は駆逐ではない。むしろ、おのおのの利点を損なわないかたちで共存することが可能になっていくかもしれないのだ。

無論、消えていくものはあり、新しいものも出てくる。また人間の習慣さえも変化していく。技術の進展の中では、いま手書き文字の認識はある程度精度が高いとは言え、やはり音声入力のほうに現在は軍配が上がりそうに思う。逆説的に、音声入力は音声しか拾っていないので、間違いが浮かび上がってきやすいように思える。文字認識OCRは、印刷物には良いけれど、人間が生身で書いたものを入力するにはまだ時間がかかりそうとも思う。

そういった将来的な変化も見据えながら、その時々でベタープラクティスをただ積み上げていくことのみが我々の成す事と考えて執筆をしていきたいと考えている。