Google Scholarの「共著者」欄に出てくる同年代の研究者の肩書がProfessorになっているのに気がついた。フルプロフェッサー、正教授だ。論文をものすごいペースで書いてきた研究者であるためそれ自体は全く驚きでも何でも無かった。何の気無しにウェブサイトを見に行った。
論文を書くのと並行して彼はエッセイをよく書いていた。最近はどんなことを書いているだろう思って著作リストを見ると、今年4月のエッセイのところに「このエッセイは最近のがんの闘病経験に触れたものである」と但し書きが付してあり「えっ」と思った。
https://doi.org/10.15252/embr.202357262
2022年8月に41歳で大腸がんだと診断されたそうだ。化学療法を受けて、現在は検査の日々であるという。それと同時に科学へのモチベーションを維持することが困難になっていることも率直に綴られていた。私よりも1歳程度年長であることは10年前の2011年に知り合った時に気がついていたが、昇進は彼のほうが遥かに速い。色々な意味で行ったり来たりしている私とは大違いだった。
そのエッセイが出てから彼がどうしているのかよくわからない。エッセイは、フルタイム勤務に戻っていることで締め括られていたが、正直なところ完全に明るいトーンとは思われなかった。文学的な調子は相変わらずだが、むしろそれが今はほんとうの戸惑いに見えたし、私も戸惑った。そもそも題名からして「科学への情熱を失うとき」という、がんとはほとんど関係のないことばを選んでいた。そこに一抹の違和感を覚える。ただ、それをこうして書いている私自身、ではどのような「ウマい」文句がつけられるかといって、もとより望むべくもない。
率直に言ってショックだった。同世代の共著者であり、コア分野は違えるとしても、彼はオルガネラゲノムの進化・多様性、わたしは性染色体領域のそれらというように、生物のゲノム進化学のなかである意味ニッチにある領域にフォーカスした人間だ。もっともわたしのほうがよほど怠け者であることは恥ずかしい。それでも、私は勝手にシンパシーを感じてきた。
彼のInstagramがウェブサイトからリンクされていたが、ほんの1週間前に更新されていた。Instagramには彼やラボメンバーのポートレイトのほか、趣味で集めているらしいヴィンテージ顕微鏡のコレクションが掲載されている。
彼は生きている。
同時に驚いたのは彼が失読症dyslexiaだったらしいということだった。そのあと過去のエッセイをあらためているときにやはり失読症とその克服のために小説を読み漁ったことが書いてあった。失読症を克服して活躍する、という例で私が聞いたことがあったのは、もちろんトム・クルーズや、その他ブラッド・ピットもそうだと聞いたような記憶があるが、いずれも俳優である。研究者、それでありつつ論文以外のエッセイも旺盛に執筆し発表する多産な著者が、失読症であった、ということは、自分の失読症の認識をあらためる必要性を突きつけてきた。
このエッセイが、Twitterでpassionの持ち方として少し話題になっていたらしいことをAltmetricから知った。
先に書いた通り私はpassionということを思って読んでいない。ひとりの友人が病を得たという以上でも以下でもなかった。同じ時期に似たようなことをやり、時に共に研究をし語り合い、そしてそれぞれに子供を育てて将来を向く。
その一方の将来が不意に崖っぷちに辿り着くということを思う。
彼はひたすらオルガネラゲノムを論じるなかで何を見て何を感じてきたのだろう?
その先に彼は何を見ていたのだろう?
彼はこれから何を明らかにしたいのだろう?
それは同時に、自分がこれから何を語りたいかという問いでもある。私は研究でやりたいことも多く残っている。その上で、いくつも書きたいことがある。