殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

MENU

お金は教養ではないのだろうか

先日のタンパク質立体構造記事がはてブにあがったので見に行ったときにこの記事が目に入った。

shinsho-plus.shueisha.co.jp

Youtubeに静かに広がっている、資産運用・投資・財テク自己啓発を扱うチャンネルがある。ひとつならず結構たくさんある。

わたしがその存在を知ったのはいつだっただろうか? たぶん、Clubhouseがバズった頃だと思う。時はコロナ、はじめこそショック症状のように急落を見せたがその後すぐに持ち直し、余ったカネが米国でNASDAQにわんさか流入して空前の株高トレンドが2年ほど続いていた。そういう、投資に夢を見せるような状況にうかれた一団があちこちで部屋を開いていた。

そういう部屋を覗いてみたりすると、自然とそういうクラスタがあることが目に入ったりもする。そのひとたちの持っているブログとかを見に行くこともあった。ただ、大前提として、財テクの教科書的なノウハウってもういくつかしかないので、どのブログも判で捺したように同じことしか言ってなかった。

  1. ネット証券
  2. インデックス(パッシブ)投信
  3. ノーロード
  4. 対象は全世界株式または米国株式
  5. ドルコスト平均法
  6. つみたてNISA/iDeCo
  7. 長期・複利

こういう考え方のキモは要するに、資産を増やすということでいえば「複利」で「増大する経済の総体(全世界株式または米国株式)にベットする」ことだし、そのほかの項目は資産を減らさない、つまり手数料を抑える(ネット証券・インデックス投信・ノーロード)だけでなく税金も抑えて(つみたてNISA/iDeCo)、そのうえで余計なことを考えない(ドルコスト平均法=積立。「資産を減らさない」というのは「時間」を割きすぎないというのも含んでいる)というぐらいで、やることは何個かぐらいしかないのだ。だから、書いてあることというのはどこも同じである。ネタ元の本というのもたいてい限られている。


ドルコスト平均法については少し別のところでも書いた。

note.com


さて冒頭の記事でまず違和感があるのは

みるからにユーザーを不当に搾取したり、自分のビジネスに誘導したり、騙してお金を稼ぐような箇所も見当たらないのです。

リベラルアーツ大学編 「お金が教養とされてしまうこんな世の中じゃ?」(1) – 集英社新書プラス

というところだ。

議論の分かれるところではあるが、実際に界隈の動画を見てみるとわかるのだが、一般的な知識を説くようにみせて、それなりにちゃっかりとアフィリエイトに誘導している。転職や不動産売買、投資ロボアドとか、いわゆる「案件」的なものなのではないかと感じていた。

だから、上記記事の著者の方が清く正しく美しく生きて来られたのだなということが伺えた。

さらにそのうえで私は違和感があるのは、YouTube「大学」で説かれる財テクを「偽リベラルアーツ」として、高尚な哲学・思想雑誌や「本当の」大学で教えられるものをまことのリベラルアーツと断じるところだった。所属や機関、課程をもってリベラルアーツあるいは教養の真偽を決めるのは、ずっとわたしにとっては距離を取りたいと思う考え方である。

それは自分自身が2001年に大学に進学する時(前後)に読んだ、浅羽通明氏の一連の教養論の影響がある。

実家に置いたまま地球の裏側にあるため、これらの本のどこに書いてあるか確認することができないが、ほぼ在野の評論家としてあった浅羽通明氏の説く教養のあり方にひそかに自分は啓発されていた。そこでは、江戸時代の「お伊勢参り」を「大学」に相似な機能を有していたという指摘さえあった。そのアイデアは、伊勢国に産まれ育った自分の精神を大きく揺さぶったしいまも揺れ続けていると言って差し支えない。

全国から人々が神宮を目指して長い旅をして帰っていく。神宮自体は単に宗教施設ではあるが、その周辺には娯楽があった。そこでは人の交流があり、アイデアと、さまざまな意味での遺伝子の交換が起きたのだと思う。それが大学と相似にあるという指摘は私自身の大学理解、教養理解、そしてお伊勢参り理解を組み替えていった。

この記事でいいたい、お金と教養のありようについていえば、お伊勢参りも無からあったわけではなく、知っている人にとっては言うまでもないことだが、お伊勢参りをプロモートする「御師」という勢力があり、「講」という積立貯金の仕組みを提供していた。これによって道中の提携宿泊機関やガイドを巡礼者は受益することが出来るというユニークだが合理的な仕組みだったといえる。

つまり浅羽通明的な意味での教養はすでにして経済面と密接な関連があったわけである。そうした、単に「知る・学ぶ」だけでない社会史的な側面を含むリベラルアーツのあり方に私は今でも少し興奮している。だから、何かの雑誌だとか、機関だとかが真のリベラルアーツというアイデアには今もってなじめないのである。

関連記事
thinkeroid.hateblo.jp