殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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BEASTARS読書会@アメリカ #1 マンガの読み方講座

今週は、だいぶナーバスになっていた。今日金曜日にBEASTARSの読書会が始まってしまうからだ。始まるまでずっとアタマの中でさまざまな思いがぐるぐると巡っていた。俺なんかが何を講義するっていうんだ、何を人様にエラそうに言えるんだ、という反面、もしかしてマンガの読み方自体まったく一般的ではないのだろうか、だとしたら自分がマンガを読めている(と思いこんでいる)というのはどういうことだといえばいいのだろうか、それをちゃんと説明するにはどういうことを書いたらいいだろうか、やはり歴史的なこととか、スタンダードなマンガについても触れるべきだろうか……という、自分としては当たり前に思うようなマンガの基本を少し説明したほうがいいのかも知れない、という側面で揺れた。

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さらにそれに加えて、BEASTARSという、かなりそれなりに可燃性の高い作品を、米国というヘイトクライムの地雷原どころか、8年前には人種間衝突のグラウンドゼロとして暴動さえあったセントルイスという土地で取り扱うことの怖さのようなものをビンビン感じながら、「もうイヤだ、もう逃げたい、こわい、こわい……」と人目を避けながら生きている一方で、使命感のようなものも感じていた。

期日が近づくに連れてどうしようもなくなった。腹を括り、本腰を入れてBEASTARS原作に向き合わざるを得ないと思った。そしてあらためてBEASTARSという作品に向き合うと、いうなればそれ自身が救いとなるような思いがあった。まずもって視覚的に喜ばしい。コマを追うことそれ自体が報酬である。まさしく当代随一の作品と信じて憚らない。これを紹介できるというのは自分の特権でもあり使命でもあると改めて感じた。その感覚だけが、今週の自分の勇気をしっかりと支えてくれたが、それでも心の中の暴風雨はやむことはなかった。

BEASTARSはもちろん日本語版も持っているから、英語と対比させて見せることから始めた。こっちに来て知ったのだが、英語版も日本語版と同じ、右綴じである。しかし、文字は横組である。その結果、狭いフキダシの中にハイフネーションもりもりで刃牙刃牙に折りたたまれたセリフが詰め込まれている。それはさすがに辛いなと思ったが仕方ない。まずはその組版慣習から説明した。そして、コマからコマへ、登場人物、最初の犠牲者テムの動きを

「まずこのコマ。テムは当惑している。汗をかいていますね。」

「次のコマ。気まずそうに笑う。この相手、間違いなく襲撃者であるわけですが、知り合いだということがわかります。」

「おどろいて振り向く。次のコマではギザギザした歯のシルエットが描かれる。襲撃されるわけです」

「……このセリフですね。肉食獣をあからさまに軽蔑している内心をあらわにしてしまうわけです。こうした社会的分断、そうした手掛かりをBEASTARSはシリーズ全巻にいくつも見出すことが出来るわけです……」

「……というわけで、ここまで読んだだけで、犠牲者と、襲撃者、犯人はシルエットだが巨大で、非常に強い、肉食動物だということがわかる。あきらかにこれがフーダニットの結構を取ることがわかります。まずはそういう捉え方でいいでしょう。その上で、これは青春モノadorescence dramaだということですね。学園、寮、演劇部、ラブレター、それから残念ながらこの傍白ですね、かわいそうなテム……」

「そして、主役のレゴシが登場する、きわめて奇妙なかたちで。みんなが犯人だと思って、レゴシ自身もそれを内面化している。これは自己スティグマと言っていい。しかしレゴシは、このコマですね、足元の花。踏まないようによけるんです。つまり、非常にやさしいキャラクターだということがここでもわかる。このギャップがコントラストになります……」

と、日本で生まれ育ってマンガを読みつけたような人間からしたら、自転車に乗るような、箸でごはんを食べるような、あるいは息を吸って吐くような、そんな自然な所作で読み取れる手掛かりを、すこし大げさに説明することにして準備した。

こんなことは、日本でなら恥ずかしくてできない。わかってるよと。いちいち説明されなくても、と言われるだろうことだ。しかし、米国にあってはそうではない。もちろんマンガはいくらか読者を獲得しつつあるようではあるが、しかし常識にはなっていない。そこをわたしはきわめてプレーンに進めたいと思った。

つまりマンガというメディアは単なる子供のためのものではなく、日本では大人も読むし、テーマはきわめて深く掘り下げられている。読む側も一定の経験を必要とするわけだが、決してリーチ不可能なわけではない。まずは、学園で起きたフーダニットと、あとのページではロマンスも登場するが、そう読んでいい。ただし、深く掘り下げればかなり掘り下げることが出来るし、それは時に哲学的にさえなるのだということを説明した。

このBEASTARS第一章の説明に加えて、それを挟み込むように、前にマンガのvery very short intruductionを、後にBEASTARSを請けて、「社会的スティグマ」としてひとまずまとめられるだろう、社会的スティグマとは何か……ということを説明するためのスライドがほしいと思った。

ここでわたしは、最近知った、ChatGPTのコードインタープリターにスライドを吐かせる機能を試してみた。ヘイChatGPT、アメリカ人にマンガを説明するスライドを軽く作ってくれ、あとそれから社会的スティグマと、その文学の具体例、それからプロセスみたいなスライドも作って欲しい……と投げると、Certainly! とかOf course! といってスルスルと10枚弱ぐらいずつ箇条書きのスライドを作ってくれた。それは簡潔だったが、ひとまず体裁は整っていた。内容としても悪くなかった。

実は昨日の帰り際に、読書会に参加してくれる同僚のひとりとすれ違った。セントルイス出身のデータサイエンティストだったが、4月に別の所内ワークショップで同じテーブルになったのだった。その時、わたしは彼が、胸に「亀」と書かれたスタジャンを着ていたのを、見逃していなかった。彼は、明日の読書会、マジ楽しみにしてるぜ、と言ってくれた。サイコーのチョイスだ、ルゴシも、ルイも、それぞれにバックグラウンドがあって、それぞれのかたちでジャスティスを持ってる。完全にいいテーマだ……

うん、オタクだ。

きょうの読書会でも彼はガンガン発言してくれた。それでファシリテータとしてはめちゃくちゃ助かった。

結果としては、コマのなかの描写をほんの少しだけきめ細かく説明したことは奏功した。やはり、多くの人が慣れていないということだった。たとえば花をよける描写でさえも、気が付かなかった、というひとがいたのだ。

わたしは、自分を、オタクではない、オタクだと思っていない、というか、それは、オタクであると公言することをゆるされていないぬるオタでさえない、ほんとうにパンピーに毛が生えたくらいで、たまたまジャンプ全盛期に少年期を過ごし、第二次性徴期でセカンドインパクトを喰らい、その後もマンガを2, 3ずつ継続的に追いかけてきているが、詳しく読み込むということは決してしてきたとは思えないし、そう言いたいわけでもない。ただTwitterやブログ、その他の評論でアニメやマンガについて書かれたものをちらちらと読んではきたし、そこで知り合ったひとたちと話し合ったこともある、というぐらいに思ってきた。

先に鶴を折る話でも書いたが、やはりこっちにくるとレベル的にバグっていて、自分がスタートがレベル99であることを見出す。裏技パスワードみたいなものか。

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こうして新たなチート……ではないが、そのような感覚……の例が重なったことで改めて別の既視感を覚えた。単にオタレベルのバグが折り鶴レベルのバグの既視感を呼んだというものではない、もっと深い遠い記憶が蘇った。それは中学・高校に来た、英語圏からのティーティーチングの先生たちだった。彼らは、もちろんそういうひとも中にはいるのかもしれないが、どちらかといえば、決して英語を指導する専門家であるという感じではなかった。ただ、英語のネイティブスピーカーであるということが求められ、その上で日本の何か、何であるかは伏せるとして、に興味があるひとたちだったのではないかと思った。

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ただ、きょう感じたのはそういうチートとかバグで無双する気持ちよさというよりも、かなり純粋に、オタク話を英語で堂々とすることができるという新鮮さだった。オタク話は楽しい。話したいことはまだまだ出てくる。しかし、今後の回でも盛り上げられられるかは、まだわからない。またテンパる日々が来るだろう。